KANSAI Close-up

HISTORIC KANSAI:敗者を惜しむ日本人の心根のあらわれ、源義経の物語

日本人の好む歴史物語を三つあげれば、「太閤記」「忠臣蔵」「義経記」になろうか。
太閤記は社会の底辺から身をおこし頂点をきわめた豊臣秀吉(1537〜1598.生年に他説あり)の一代記であり、忠臣蔵は目的に突き進む男たちのチームワークの話(事象は1700前後)、義経記は悲運に散った若武者・源義経(1159〜1189)の物語である。
この三大物語は、舞台や映画、テレビ番組などに繰り返し登場する。来年1月に始まるNHKの大河ドラマも「義経」である。これは一年連続の歴史物語番組だが、ここで取り上げられると、その舞台となる地域は、いつも観光客でにぎわうようになる。
義経の史跡は全国にある。古来、義経の人気は高く人々は至る所に義経ゆかりの場を探した。彼は武勲を立てながらも兄に攻められ自決する悲劇の名将なのだが、愛惜の念から、モンゴルに逃れ英雄ジンギスカンとなったという伝説まで生まれた。だからといって、テレビ番組「義経」で、モンゴルにまで日本人観光客がつめかけるとは考えにくいが。  
まずは京都の史跡をたずねたい。義経は源義朝と常盤御前の間に、洛北の鞍馬で生まれた。幼名牛若丸。今宮神社(北区紫野今宮町)北東の光念寺に常盤御前の守り本尊「腹帯地蔵」がある。近くの常徳寺にも安産を祈った「常盤地蔵」がある。
牛若丸は鞍馬の山中で修行した。叡山電鉄鞍馬駅からやや登ると由岐神社(左京区鞍馬本町)の先の東光坊跡に「義経供養塔」。山を越えると貴船神社に「鬼一法眼古址の碑」がある。義経は鬼一法眼の娘と恋仲になり、鬼一の兵法書を持ち出した。鬼一は義経を殺そうとしたが果たせず、娘は義経を偲び死を選んだ。
つぎに「五条大橋」(下京区河原町五条東)。牛若丸と弁慶が闘った所だ。大男の弁慶を小柄な牛若丸は身軽に翻弄した。若者ダヴィデが巨人ゴリアテを倒したように。ゴリアテとちがい弁慶は牛若丸に心服し、生涯、牛若丸を支えた。決闘のメルヘンチックな石碑があるが、周囲は近代化され、当時の面影はない。
本隆寺(上京区智恵光院通五辻上ル紋屋町)に「首途八幡宮」。牛若丸が旅の無事を祈ったとも、大将となった義経が戦いの神・宇佐八幡宮から勧請したとも。勧請とは神のおでましを請うこと。東本願寺(下京区)の北「諏訪神社」も義経が勧請したといわれる。
義経の姓「源」は、もとは武家の一族の称。武家は貴族の護衛役だったが政治の実権を握り、源氏と平家が争った。一時期平家が圧勝したが、義経の奮闘などで源氏が盛り返し武家政治を確立した。武家政治は変遷を経て1868年までつづいた。おおまかにいえば、現代日本は武家政治を廃した市民社会の流れである。
義経の悲運は「判官贔屓」という言葉を生んだ。判官は義経、贔屓は肩入れすること。勝者より敗者の健闘を惜しむ日本人独特(ではないかもしれないが)の感情をあらわす言葉である。(田中準造)