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[Columns]能に魅せられた中国人学者

 日本が誇る伝統芸能の「能」が若い人たち、なかでも若い女性に人気上昇中だ。高校でも能の鑑賞を課外授業に取り入れているところがあり、奈良・東大寺近くの能楽堂で、制服姿の男女高校生が多数観劇している場面に出くわしたこともある。

 能楽ファンのひとりとして、うれしい限りだが、お隣の中国で能はどのように受け入れられているのだろう。
 能と中国の関わりを長年研究している中国人学者のひとり、王冬蘭帝塚山大学教授(60)=写真=を研究室に訪ねて、能の中国事情を聞いた。
 
 王さんは「能と中国とは昔から深い絆があります」という。「現在、日本で上演されている能の作品約250曲。そのうち中国の古典や説話から題材をとった、いわゆる唐事(からごと)はざっと1割の20数曲にものぼります。よく演じられる『楊貴妃』『石橋(しゃっきょう)』『猩々(しょうじょう)』『邯鄲(かんたん)』などは唐事です」。唐事の事例を紹介した『能における中国』をはじめ『風姿花伝』の翻訳、『鎮魂詩劇―世界文化遺産 日本古典戯劇「能」概貌』などの著書があり、中国人の数少ない能楽研究者のひとりである。
 ただし、中国の故事が日本に伝わっても、その解釈が違ってくるものもある。「猩々という想像上の動物は、能の中ではめでたい霊獣ですが、中国では怪獣です」。

 能の起源についてはいろいろな説があるが、「中国では、能は元時代の戯曲『元曲』の影響を受けたと主張する研究者がいまもかなりいる」と王さん。日本では「元曲影響説」は否定されおり、王さんも「根拠がない仮説」だという。

 王さんは、中国ハルビン市生まれ。中学生の頃は文化大革命の最中で勉強どころではなかった。中国の伝統芸能である「京劇」なども迫害されたほどだった。革命騒ぎが収まり、演劇史を学んだ。29年前に来日し、平成元年に帝塚山大学を卒業。大阪大学で博士(文学)号を取得した。
 友人に誘われ、大阪の大槻能楽堂で初めて『羽衣』を鑑賞して心底驚いた。母国の京劇とはあまりに違いすぎる。「ジャジャーン」とにぎやかに銅鑼(どら)が鳴り響く中で、歌舞伎役者に似た隈取りをした演者が跳んだりはねたり、激しい動きをくりひろげるものが多い。

 フランスの映画監督ジュリアン・デュビビエは「私が裁判官だったら、懲役5年のかわりに、能を5年間、観劇する義務を科す刑を言い渡すだろう」といったとか。「寡黙の演劇」ともいわれる能は、外国人にとって、驚きと難解と退屈なしろものだったに違いない。

 しかし、王さんは驚くと同時に「静けさの中に秘める悲しみや怒り、激しい心の葛藤などを表現する能の奥深さ」にすっかり魅せられ、能の研究にのめり込んだ。
 ことし夏、中国東北部(旧満州)で能が演じられた実態を調査した。能舞台がつくられ、日本国内から能楽師らが招かれるなど日本人社会を中心に能がもてはやされたが、戦後は忘れ去られた実態を4年がかりで研究する予定という。
「いま中国では、日本製アニメやSMAP、AKB48などは若者の間でも人気が高い。狂言は愛好者がいて、野村万作さん(人間国宝)のファンも多いのですが、能はあまり知られていませんね」と残念そう。
 欧米では、能楽の研究が進み、演目を自国語に翻訳にされている。王さんが米ポートランド大学で研修中、能楽研究をしている米国人学生が能を演じた。「アフリカ系の学生が黒い肌を白塗りにして、能装束を付けて演じた姿が印象的でした。米国ではそれほど親しまれているのです」。

 王さんが好きな曲のひとつが、世阿弥の名作として名高い『砧(きぬた)』。これも中国の故事にちなんだ曲で「京に赴いたまま帰ってこない夫を恨んで死んだ妻の亡霊と夫が再会する」という物語。パリ公演でも人気を博した。「母国の人たちにも鑑賞してほしい」と王さん。
 中国でも、日本発の文化を海外に売り込む「クールジャパン」の成果が出てきた中で、「唐事の発信元」中国でも能に興味を持ってほしいものである。(佐藤孝仁)
 
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王冬蘭帝塚山大学教授