現場リポート


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Vol.11 大阪万博の「未来」の記憶

by 八木寛之

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大阪万博から万博記念公園へ〜40年後からの「万博」

昨年(2010年)は、大阪・吹田市で大阪万博が開催されて40年。さらに上海万博が開催されたこともあり、書籍や雑誌・テレビなどで「万博」が注目を集めた。また、ここ数年は「昭和ノスタルジー」ブームという追い風もあってか、万博で体験した「未来」の思い出を無邪気に語る大人たちをメディアで目にすることも多かった。大阪万博からおよそ10年後に生まれた筆者にとって、それは文字通りの意味での共有不可能な万博の記憶だ。一方、会場跡地に整備された万博記念公園やそこにそびえ立つ「太陽の塔」の姿をみてきたジモトの人間として、その場所に残された事物を通して“万博の記憶”を共有していると感じるときがある。

わずか半年間に6,400万人以上が押し寄せた当時には遠く及ばないものの、公園にはいまでも年間およそ160万人が訪れ(2009年)、大阪の郊外に佇む広大な公園として広く人々に親しまれている。

そうした中2010年3月、園内に大阪万博の記憶を次世代へ継承すべく「EXPO'70パビリオン」がオープンしたことを聞き現地取材した。万博が残したもの、現在そして今後継承されるものについて考えてみたい。

 

未来を演出する祝祭空間〜吹田・千里丘陵の開発と大阪万博の開催

1970年に開催された大阪万博は、アジアではじめて開催された万国博覧会である。高度経済成長真只中の1965年、BIE(博覧会国際事務局)の理事会にて日本での万博開催が正式決定した。

国内での開催候補地は大阪、兵庫、滋賀の3ヶ所が検討されたが、最終的に大阪北摂の千里丘陵約330ヘクタールの土地が選ばれた。交通の便の良さ、静かな環境、土地造成が容易だったことなどが選定理由として挙げられるが、隣接地域に戦後大規模ニュータウン開発の先駆けであった「千里ニュータウン」の造成が進められていたことも非常に大きかったといえる。そこは緻密な都市計画にもとづき、2DKの間取りの団地住宅が次々と建てられ、洋風化された新しいライフスタイルが築かれつつある場所であった。

そして万博会場内のパビリオンでは企業や国家の威信をかけて、当時最新の技術を駆使し未来的なイメージが演出された。一方、万博のテーマである「人類の進歩と調和」のテーマ展示は、総合プロデューサー・岡本太郎氏の指揮のもとで進められた。岡本氏は未来的なパビリオンが軒を連ねる会場の真ん中に、非常に土着的な意匠の「太陽の塔」をあえて置くことで、進歩主義的・近代主義的な博覧会の思想を相対化させ、万博が「お祭り」の場であることを強調したのであった。政府・自治体主導による「未来都市」開発の隣で、日本を代表する企業や国家、そして芸術家・文化人たち総出の祝祭空間が創出されたのだ。

 

現代社会からみる大阪万博での技術展示と、会場を支えた技術

日本中が熱狂のうちに幕を閉じた大阪万博であったが、ここではその後の日本社会、つまり現在のわれわれの生活に少なからず影響を及ぼしたものという観点から、大阪万博を少しみていきたい。

例えばパビリオン内では、ワイヤレステレホンや電気自動車など、今や当たり前のように触れられる技術や、今まさに普及しつつある製品が数多く展示されていた。また最近では、サンヨー館に展示されていた「ウルトラソニック・バス」(愛称:人間洗濯機)が、介護用浴槽として活用されていることが注目されている。

さらに、こうした展示物などと比べるとあまり注目されなかったが、万博会場内では、さまざまな情報通信サービスが提供されていた。例えば、車の出入り台数を地面に設置したループコイルで検知し、自動車への誘導標識を自動で操作する駐車場サービス。会場内のさまざまな箇所の場内流動情報をデータ化し管理するシステム。そして子供連れの来場客に渡された「迷子ワッペン」。これは、入場時に子どもと親がそれぞれ同じ番号が記されたワッペンの半券を持ち、迷子センターで番号をコンピューターで検索できるというモノだ。 このように、人やモノの流れに関する情報を提供するために、会場内はコンピューター技術によって一元管理されていた。

大阪万博を振り返るとき、建築家たちによる未来的な意匠の建築物や国家・企業や芸術家たちの展示物に目が行きがちであるが、実はこうした会場運営を下支えしていた技術こそが、現代社会における情報通信サービスの普及を先取りしたものであったのだ。

 

「緑に包まれた文化公園」〜万博記念公園における「自立した森づくり」の実験場

万博終了後、会場跡地は1972年に「万国博覧会記念公園」として整備され、現在までにさまざまな取組みが実践されてきた。

1971年に設立された「日本万国博覧会記念協会」は跡地利用の基本計画をまとめ、万博のお祭り騒ぎからはうって変わって「緑に包まれた文化公園」という理念のもと公園を整備し、万博記念公園駅北側ゾーンへ約250種・60万本の樹木が植栽された。整備にあたっては、人工地盤を残したままその上に舗装物やパビリオンの構造物のガラを敷いて盛土を行い、外周部の地形を高くするというように造成された。どうしてこのような盛土が行われたのか?

それはこの公園整備の目的が、万博以前の里山の状態へ戻すのではなく、自然の生態系が息づく、生物多様性に富んだ自然の森を「人工的に」創出することだったからだ。いわば公園全体が、人の手による自立した森づくりの壮大な実験場として捉えられているのだ。

この実験は40年経った現在でも継続中である。その結果、公園には2006年現在、115種類の野鳥、112種類の昆虫・両生類、79種類の魚類・底生生物、105種類の土壌生物が定着、生息しており、オオタカの生息も観測されているという。

しかし園内の植樹は同じ時期におこなわれたため、背の高い木だけが同じスピードで成長して日光があたりにくい低木が消滅し、その影響で生物多様性に欠けるといった新たな問題も生じている。そこで現在、京都大学、大阪府立大学などと共同で、低木に日光があたるように樹木を伐採したギャップ区(台風などで大木が倒れた時に生じる隙間)などを人工的につくる取組みを行っている。

万博公園の森づくりは「人口減少時代における、街の緑化の先行実験」としても位置づけられている。将来の郊外住宅地における、人と自然との共生を目指したまちづくりの参考になるだろう。

 

2010年最新のパビリオン——「EXPO'70パビリオン」

協会から事業を引き継いだ「独立行政法人 日本万国博覧会記念機構」は2006年、経済成長の鈍化と心の豊かさを求める国民意識という時代の変化に対応すべく、将来ビジョンを策定した。

将来ビジョンでは「自然環境の保全」、「生き生きとした人間社会の構築」、「日本万国博覧会の遺産の継承」の3つの方向性を掲げている。

先に挙げた自立した森づくりのほかに、「自然環境の中での文化の創造」や「健康増進への貢献」といった社会的なニーズに応えるために、地域社会やNPO法人・ボランティア団体と協働で自然学習や環境調査を行ったり、近隣の高度医療機関と連携して患者がリハビリのため公園内で機能訓練を行いやすい環境づくり(バリアフリーの整備やウォーキングモデルコースの設定)などを施策として掲げている。

また、大阪万博の寄贈品やデータ資料を保存し、その意義を伝えるために2010年、園内の「鉄鋼館」を改修した「EXPO'70パビリオン」がオープンした。鉄鋼館は日本鉄鋼連盟が出展した大阪万博のパビリオンで、「日本民藝館」などとともに園内に残されている数少ない万博当時の建造物である。鉄骨・鉄筋コンクリートの鉄鋼建築の技術の粋を集めた非常に頑丈なつくりだったため博覧会終了後も残すことが決まっていたが、万博終了後は倉庫として存置されていたという。それが、大阪万博の開催40周年記念事業として鉄鋼館を記念館に改装することになった。

パビリオン内には、万博の実物資料や写真・映像資料など約3,000点が展示されている。展示品の中で特に苦労したのが、各パビリオンの建築事務所や施工業者の許諾、各パビリオンのホステスユニフォームの複製に伴う出展国、企業、デザイナー、製作者(百貨店など)に了解を得たことだという。

鉄鋼館内部の大半を占める当時最新の音響・照明技術を備えた「スペースシアターホール」は、ホール内の片隅に設けられたブースからのぞき見ることができ、宙吊りになった無数の球体型スピーカーなど内部の様子が見られる。

また館内には、一般市民からの写真や小物などの寄贈品も展示されており、人々のさまざまな思い出もまた次世代へと継承すべき遺産として位置づけられている。

来場者には若年層も多く、今後そうした万博を知らない世代も「参加」するような企画や展示も期待したいところだ。

 

大阪万博の「未来」の記憶の継承

幼少期に、大阪万博終了後の跡地でパビリオンが次々と取り壊されていく光景を目の当たりにした現代美術作家のヤノベケンジ氏は、自身にとっての万博のイメージは 「未来の廃墟」であるという。ヤノベ氏は自身の作品づくりが、この「未来の廃墟」のイメージの影響を強く受けていると語り、それは「非常にもの哀しい気持ちと同時に、廃墟の後から何かが生まれてくるようなどきどきした気持ち、冒険的な気持ち」を喚起させるという。

すでにあの「お祭り」から40年が経過し、万博会場と周辺地域の環境は大きく変容した。筆者のように肌身で体験していない世代が、今後いかにあの「万博」を語りうるのだろうか。

今回取材したEXPO'70パビリオン内部には、鉄鋼館当時の真っ赤な床や壁面が残されており、それはいまでも未来的なイメージを想起させるのに十分なものだと感じた。

一方パビリオン改修にあたり、館内にはエレベーターが設置されていた。バリアフリー化という現在ではごく当たり前の光景が、40年前の「未来」では描かれることはなかったのかと、ふと思った。

ある時代に描かれた「未来」は、描かれた時代の空気や雰囲気そのものを映しだす。

大阪万博という一大イベントは、高度成長期の到達点にあった時代の空気を最も露出させる出来事だ。常に時代の一歩先を進む技術や思想が、過去の遺産として残されることによって、過去に描かれた「未来」が発見される。跡地が万博記念公園として万博の記憶を保管する空間となることで、人々は残された遺産と対話をしながら新しい価値を付与していくことができる。パビリオンの基礎部分を残したままその上に森林が育っているという事実は、大阪万博の「未来の記憶」がまるで地層のように堆積され続けていることを象徴的に示しているのだ。

 
 


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