関西の日本建築 美どころ 観どころ
日本の名城が誕生し育った地―関西
鈴木 嘉吉
元奈良国立文化財研究所所長
1993年世界遺産に登録された姫路城(兵庫県)
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武将の夢を実らせた建築
日本の城は古代・中世を通じて山城(平地から80〜100m以上の山上にある城)が基本であった。663年に百済と連合して朝鮮半島に遠征した日本軍が唐・新羅軍に惨敗したのち、本土への進攻に備えて九州北部から瀬戸内海沿岸の要所に多くの国営山城を築いたのをはじめ、中世では各地の豪族がそれぞれに山城を拠点とし、殊に戦国大名は自身の居館や家臣団の屋敷を平地に構え、背後の山城を「詰の城」(戦闘用の山城)としていた。ところが1576年に天下を統一した織田信長が安土城を築くと城の姿は一変する。平野にのぞむ小高い丘上に城を構える平山城や平城(水利の良い平地に築いた城)に移行し、足元には多くの商工業者を集めた城下町が生まれた。中世にはせいぜい三重櫓の建物が、五重七階の大規模な高層建築に発達して「天守(天守閣)」と呼ばれるようになり、自然石積の石垣が部分的に用いられた従来の縄張り(建物の位置を示す境界)も、大石による高石垣で固められて防備と威厳を一層増した。城は単なる軍事施設ではなく、武将の権力を象徴する近世都市の中核建築となったのである。関西は近世城郭建築の発祥と大成の地であり、豊臣秀吉が開いた大阪城、徳川将軍上洛時の居城二条城、大王守以下の建築群がよく残る姫路城など、日本を代表する名城が今日まで威容を誇っている。
敵を迎え撃つ鉄砲狭間(銃眼)にも意匠を凝らしている。
石垣
狭間
西の丸を望む
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規制緩和が促した技術的発展
安土城の城下町が楽市楽座と呼ばれた自由な経済活動で賑ったように、近世城郭建築も規制緩和による新しい生産システムから生まれた。天下制覇をめざす武将がひしめく緊迫した情勢の中で、大規模かつ多種多量の建築群を短時日で造るには、従来の座に縛られた小さな工匠組織の殻を破って一度に多数の職人を動員する必要があった。城の建築は各地から銭で集められた大工・石工・左官たちが競争して腕をふるう場となったのである。そこでは技術交流があり新しい構造方法が開発される。
例えば中世的性格が濃い福井の丸岡城では石垣から少し後退させて礎石を置き側柱が立つので、建物周囲に「犬走り」と呼ばれる帯状の空地がある。上面に凹凸が多く強度も弱いため直接石垣に柱を立てることができなかったからである。しかし近世城郭は土台を用いて石垣の端に柱を立て、柱も貫穴などの間隔を一定にした規格品となる。大量生産と工期短縮の一種のプレハブ建築である。楼閣建築は中世には金閣のように三階ぐらいが限度であったのに、五重七階の天守が生まれたのも新システムの成果である。技術的にも社会的にも、それまでの神仏の建築に代って「人」の建築が首位の座を占めることとなった。
武具掛け
石打棚/内室
石内棚は物見や射撃用の足場、その下は、武者隠し、または物置の空間。
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姫路城に見る「用」と「美」の新技術
高層建築には新技術が要求される。姫路城は1609年に天守が竣工した近世城郭最盛期の建築である。1615年の大阪夏の陣で徳川幕府の体制が確立すると一国一城令など統制が強化されて活気が失われ、技術・意匠ともに城の建築は平凡化する。その点で姫路城は一つの頂点を示す例である。その大天守は、三方を石垣に囲まれた地階と石垣上六階の計七階からなり、中央には地階から六階床下まで東西2本の大柱(根元の長径0.95m、長さ25m)が立つ。軸組は地階から2階までを通柱の3・4階および5・6階の3ブロックを積み重ねる構法で、通柱を胴差で固めて各階の床組とする。胴差や通柱上の大梁は中央大柱に差し込まれ3ブロックが一体化している。社寺建築には全くない新技術である。側廻りの柱は1間ごとに立て中柱を入れるので結局半間(1m)ごとに柱が立つという丈夫な構造である。隅には柱と同じ太さの筋違を入れ耐震性を高めている。初期の天守は下方だけ大壁造り(土蔵の壁のように表から柱が見えないよう塗り込む方法)としたが、防備と美観のため全体を白亜に塗り込める結果となり、重量の増加に備えたのである。窓の連子(格子)も鉄板を張った上から塗り込めとしている。屋根には大唐破風や千鳥破風を設けて各階ごとの外観は変化に富んでいる。城の建築には用と美のさまざまな工夫が凝らされているのである。
大柱
側廻り柱
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